昭和20年8月15日、日本国は降伏した。以降、世界は連合国が敷いた秩序によって動くことになる。敗戦国である日本は自国の正当性を主張することさえ許されず、戦後国民は日本悪玉論を教育された。この戦争は日本が悪いのか!? 盧溝橋で丸腰の日本軍を攻撃してきたのは蒋介石の中国国民党軍ではないか! 白人の植民地支配こそ侵略の最たるものではないのか! ABCDラインで締め付け、ハルノートで属国化を要求し、進むも地獄引くも地獄の状態まで日本を追い詰めたのはルーズベルトではないか! ここに真の戦争の原因を考察する。 


驚愕の事実 

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中国 スターリン、毛沢東に対し「蒋介石と日本を戦わせるように指示」

昭和8(1933)1016日、蒋介石は第五次囲剿作戦を開始、兵力80万で共産軍15万を攻撃した。国民党軍は翌1934428日、共産軍から広昌を、516日に建寧を、10月に石城、興国を奪回し、毛沢東の共産党は壊滅寸前の状態に追い込まれた。毛沢東は、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、昭和9(1934)1014日から昭和11(1936)年の西安事件まで国民党軍と交戦しながら、12500kmを徒歩で続けた移動を所謂西遷(せいせん)が始まった。(共産党の言い方では長征)第五次掃共戦は、国民党の圧勝であった。共産党は西部奥地ソ連国境に近い延安へ逃れた。しかし、そこは不毛な黄土台地にある中国でも最も貧しいとされる地域であった。加えて、その兵力は出発時の十分の一まで激減していた。兵無し武器も無し食料無し。戦さどころではない。毛沢東は頭を抱えた。そんな矢先、共産党に「謎」の天佑が訪れた。昭和11(1936)1212日、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件「西安事件」が起きる。中華民国西安において張学良の親衛隊が蒋介石の宿泊先を襲撃して拘束拉致した。

 

事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、その後の蒋介石の行動を見ると、この事件によって、共同抗日と国共合作が促されたと予測される。西安に拘禁された蒋介石は国民党と共産党の再合作を迫られ、共産党周恩来らとの会談で反共姿勢から抗日姿勢への転換を受諾した。共産党の翻意で張学良は蒋介石に恭順して、1226日に蒋介石と張学良が揃って南京に帰還したことで、西安事件は一旦は収まった。張学良が提案した内戦停止と一致抗日統一戦線結成は世論の支持を受け、蒋介石も無視できなくなった。 昭和12(1937)77日、北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生。それを機に日中の小ぜり合いが発生したのである。世に言う盧溝橋事件である。

  この年より37年前の1900年、宗教・政治結社である義和団が、外国人排斥を旗印に北京の外国公館を襲撃した。時の清国政府は傍観した(裏では暴動を煽った)ため、やむなく日本、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアなど11カ国が共同出兵して暴動を鎮圧した。そして翌1901年、各国政府は清国政府と「北清事変に関する最終議定書」を結び、首都の北京に列国公使館区域を設定する(第7条)とともに、中国在住の自国民を守るため、外国軍隊の北京・天津地区における無期限の駐兵を認めさせた(第9条)のである。更に同議定書の「交換公文」において、各国軍隊には、鉄道沿線において犯罪捜査を行い、犯罪者に対して懲罰権を行使する権限や、清国政府に通告することなく実弾射撃以外の訓練や演習を行う権限も付与された、という解釈が確立されていた。このように中国政府との合意に基づいて各国は、北京・天津地域を守るため軍隊を駐留させていた。その規模は、盧溝橋事件当時(昭和12年)、イギリス軍1000名、アメリカ軍1220名、フランス軍1820名、イタリア軍300名であった。居留民が3万3000人に達していた日本の場合、約5600人が駐留していた。

 

事件発生当時、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊は、北京郊外にある盧溝橋から北西約4キロに位置する豊台(ほうだい)に駐屯地(=基地)を置いていた。この第三大隊第八中隊の133名が7月7日深夜、盧溝橋周辺の永定(えいてい)河の河床地帯で実弾を使わない夜間演習を行っていたところ午後10時40分頃、突然実弾射撃を受けた。その後も午後10時50分頃に2回目の実弾射撃があり、翌日の午前3時25分頃、3回目の実弾射撃を受けた。

 

 3回もの実弾射撃を受けて、その「犯人」が中国の第二十九軍か匪賊(ひぞく)であるかを確かめるため、第三大隊が永定河左岸堤防に向け前進すると、午前5時30分、永定河左岸堤防に布陣していた第二十九軍が一斉猛射撃を開始し、日本側も前夜以来初めてそれに応射、ついに全面衝突となった。これが、いわゆる「盧溝橋事件」である。

 

 約2時間後、現地での激戦はいったん収まった。以降、8日の午後3時30分頃に戦闘が再発するなど一時的な戦闘はあったものの、概ね小康状態にて推移し、北平(現在の北京)及び盧溝橋城(苑平県城)内で、停戦に向けた交渉が行われ、11日に北平で日本の支那駐屯軍と中国の第二十九軍との間で現地停戦協定が結ばれた。

 

 しかし、中国側は25日に北平東方の廊坊駅付近で、26日には北平の広安門で相次いで衝突事件を起こした。さらに29日に、北京郊外の通州で中国側の冀東防共自治政府(1935年12月、蒋介石政権から分離して成立した政府)の保安隊が、軍人及び女性を含む日本人居留民を多数殺害する「通州事件」を起こした。かくして日本政府は内地から三個師団を派遣し、全面的な日中対決となったのである。

 

 ところが、中国共産党政府の歴史教科書では、「最初の一発」にも、停戦協定後に中国側が「廊坊事件」や「通州事件」といった軍事的挑発や在留邦人に対する組織的大量殺害事件を起こしたことにも全く触れておらず、あたかも日本軍側が一方的に戦争を仕掛けたかのように描いている。

 

 昭和12(1937)77日、北京郊外の盧溝橋で謎の発砲事件が発生。それを機に日中の小ぜり合いが発生したのである。世に言う盧溝橋事件である。これに対し、共産党は事件発生からわずか数時間後には通電を発し、全国民に向けて一致抗戦を訴えた。まるで事件を事前に予知していたかのような異例の段取りの早さだった。

あわや全面衝突かと危惧されたが、日本政府は不拡大方針を堅持。現地で停戦協定が結ばれ(711日)戦火の拡大は防がれいったん収束に向かった。

共産党は落胆した。日中が衝突すれば内戦より抗日を求める世論が高まり、それだけ国共合作をもくろむ共産党にとっては追い風となるはずだったからだ。

ところが、停戦協定が結ばれたその直後から、どういうわけか日本人をねらった殺害事件や挑発事件が中国各地で頻発。その結果、停戦協定は事実上無効となってしまったのである。

この間に発生した中国側による挑発事件の主なものは以下の通りである。

7月13日 大紅門事件(爆殺により日本兵4名が死亡)
7月25日 廊坊事件(日本軍が銃撃を受ける)
7月26日 広安門事件(日本軍が銃撃を受ける)
7月29日 通州事件 
中国の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した通州事件(つうしゅうじけん)が起きる。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、223人以上におよぶ猟奇的な殺害、処刑が中国人部隊により行われた。通州虐殺事件とも呼ばれる。

  8月9日 大山事件(大山勇夫海軍中尉が殺害される)
*大山事件当日、元外交官船津振一郎を介した和平交渉(船津和平工作)が予定されていたことに注意。この会談で日本側は、満州事変以後、日本が得た権益のほとんどを放棄するつもりでいた。そこまでして紛争を終結させようと思っていたのである。

  不拡大方針にもとづく日本側の和平への努力とは裏腹に中国の世論はこの間、どういうわけか過激さを増していく一方だった。平和を求める声よりも全面抗戦を訴える論調の方がますます強くなっていったのである。

  

こうしたなか外国人軍事顧問の教唆を受けた蒋介石は8月13日、上海の日本人租界に向けて突然攻撃を開始した。第二次上海事変の勃発である。

  一連の動きから蒋介石が強固な開戦意志を持っていると判断した日本政府は、それまでの不拡大方針を撤回。8月15日、「南京政府の反省と懲罰」のためとして日本軍の上海派遣を決定した。

  日本軍の正式派兵と激昂する国内世論を受けた蒋介石は徹底抗戦を表明。8月22日、共産党軍を国民党軍に組み込み、ともに一致抗日をはかることを正式に決定した。

 

ここに共産党の悲願であった第二次国共合作が、ようやく実を結んだのである。おそらく毛沢東はしてやったりとほくそえんだことであろう。

その20年以上も後のことである。

 

1964年、訪中した日本社会党の委員長が、過去の戦争への謝罪を述べたのに対し、毛沢東はこう答えた。「何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」

  また中国共産党が発行した『初級事務戦士政治課本』というパンフレットには、「盧溝橋での発砲事件は党中央の指令を劉少奇同志が実行に移したもの」と記されているという。

  

さらに、ここでもうひとつ、指摘しておきたいことがある。それは日本がこの支那事変の発生後、和平交渉を何度も試みたという事実である。しかもそれは戦線が拡大した後でさえ複数回にわたって試みられている。以下はそうした和平交渉の主なリストである。

 1、現地停戦協定(松井-秦徳純協定)1937年7月11日
2、宮崎竜介和平工作 1937年7月19日
3、船津和平工作 1937年8月9日←同日午前、大山大尉殺害事件が発生し中断
4、トラウトマン和平工作 1937年11月5日
5、汪兆銘和平工作 1939年
1940年
6、桐工作 1939年1940年

 

これをみて奇妙だと思わないだろうか? 仮に日本が中国を侵略したくてそうしたのであれば、なにゆえ和平交渉などもちかける必要があったのだろうか?  国際世論を意識した単なる外交的なポーズか?  だとしたらなにゆえ何度もそうしたのか? また中国側が真に和平を望んでいたなら、なにゆえその度に拒否しつづけたのか? 心の底から平和を望んでいたなら、条件が少々不利なものだったとしても妥協するのが普通だろう。ましてや開戦以来、負け戦続きだった中国である。力関係からいってもそうするのが当然だったはずだ。

 しかし、どういうわけか中国はそうしなかった。むしろ強気で交渉に臨み、なにやかや理屈をつけては一方的に交渉を打ち切るという高飛車な態度をとり続けた。

  

これをみるかぎり、中国は和平など望んでいなかったように見える。日本と中国、戦争を望んでいたのがどちらだったのかは議論の余地が無い。

 

欧州 チャーチル、ナチスドイツ副総統ルドルフ・ヘスからの和平申し出を黙殺。

第2次世界大戦は、二人の政治家ルーズベルトとチャーチルが作った戦争である。

「ユダヤ人を虐殺したヒトラーと粛清の名の下に自国民を抹殺したスターリン。この2人の怪物同士の戦いは不可避である。両者が死闘を続け、国力を浪費した時点で仲介に入るべきだ」と考えていたハーバート・フーバー元大統領の見立て(フーバー著『裏切られた自由』)見解は正しい。独ソ戦は恐らく世界史上最も激しい局地戦になっただろう。だが、局地戦で終わっていれば世界大戦にもならず、太平洋戦争も起きるはずがなかったのである。

第2次大戦開戦の真の原因はルーズベルトとチャーチルが、あくまでもナチスドイツとの戦いを望んだからである。ルーズベルトがドイツとの戦いを望んでいたことはハーバート・フーバー元大統領、ハミルトン・フィッシュ下院議員など、彼と同時代を生きた政治家がすでに多くを語っている。

ルーズベルトが、ワシントン議会の承認なく、ドイツ海軍(Uボート)への攻撃命令を発していたこと、国民に対してその事実を隠し、米艦船がUボートから一方的に攻撃を受けていると説明していたこと、あり得ないナチスドイツによる米本土攻撃の恐怖を煽ったこと、一方でアドルフ・ヒトラーはルーズベルトの挑発に乗るなと海軍に厳命していたことなどは、すでによく知られている。

しかし、英国がドイツの空爆に苦しみ、米国にどれほど救援を求めてもルーズベルトは動けなかった。米国にとって、英国は最も親密な国である。その国が敗北寸前まで追い込まれていた。それでもアメリカ世論は動かず、ルーズベルトは身動きが取れなかった。米国世論がそうさせなかったのだ。世論の80パーセント以上が頑として、ヨーロッパのごたごたに巻き込まれることを拒否し続けた。

 

もしルーズベルトが、ヨーロッパの戦いに巻き込まれることを怖れ、そうした事態を真に避けようとしていたのであれば、ドイツに宣戦布告した英仏と独の間に立って仲介に入る外交的オプションがあった。

アメリカの強大な国力を背景にした外交を展開すれば、少なくとも暫定休戦協定を締結させられる可能性があった。米国には戦争当事国に痛み分けを強制できる力があったのである。

実際、当時のルーズベルト支援者の中にも、彼がそのような外交を展開してくれるだろうと期待するものが少なくなかった。

その一人がウィリアム・ローズ・デイヴィスであった。

デイヴィスは独立系石油王であり、ルーズベルトの有力支援者だった。ルーズベルトが再選を目指した選挙戦(1936年)では、30万ドルを拠出している。

彼は、民主党の有力支持団体であるアメリカ鉱山労働者連盟会長ジョン・L・ルイスの友人でもあり、ホワイトハウス幹部とは太い人脈があった。

1939年9月15日正午少し前、彼はホワイトハウスでルーズベルトと会っている。このことはルーズベルトの公式スケジュールの控えから確認ができる。

自身が密使となり、ドイツ指導者に休戦交渉に応じるよう説得したいと語り、ルーズベルトの了解を得た。コーデル・ハル国務長官、スティーブン・アーリー報道官、ジョン・ルイス会長も同席した。

ベルリンに入ったデイヴィスは、ヘルマン・ゲーリング元帥と複数回にわたる交渉に臨んだ。ルーズベルトに仲介の意思があると聞かされたゲーリングは驚いたようであったが、米国の仲介努力を感謝し次のように語った。

「貴殿の言葉には驚かされた。ルーズベルト氏は我が国に対しては悪意を持ち、英仏への同情心が強いと思っていた。和平の維持についてドイツは常にそれを望んできた。ただ対等の関係でなくてはならない。いまあなたが披瀝した考えは、ヒトラー総統及びわが政府のこれまでの主張に合致する。ワールドコンフェランス(世界規模の会議)を開くこと。それだけが、和平を再構築できる手段であろう。我が国は当然に、ルーズベルト氏がそのような会議を主宰するのであれば歓迎である。会議の目的は、恒久的和平の構築である」

ゲーリングは、「世界会議はどこで開催されても構わない。ワシントンであっても自身が代表として参加する」とまで述べた。

ナチス政権の講和(休戦)を望む態度を確認したデイヴィスは、直ちにワシントンに戻った。しかしルーズベルトは、自身が遣(や)った密使であるにもかかわらず、彼と会おうとしなかった。理由は「会議中で忙しい」であった。

業を煮やしたデイヴィスは、ドイツが講和の意思を持っていることを手紙で伝えたが、ルーズベルトから返答はなかった。

(チャーチルから仲介への反発があった可能性も否定できないが)ルーズベルトにはナチスドイツと外交交渉するつもりは、はなからなかったと推論しても、間違いなかろう。その後、デイヴィスがホワイトハウスに招かれることはなかった。

ナチスドイツは開戦後、しばらくはその戦火を西側に広げなかった。

1939年9月1日のポーランド侵攻から翌40年5月の間は、独と英仏との地上戦はほとんどない。この時期を欧米の歴史家は「Phony War(偽りの戦争)」と呼んでいる。

 

独ソ戦の緒戦(バルバロッサ作戦)の少し前の時期(1941年5月から6月)には、英国の敗北は濃厚であり、ドイツとの和解を探ることの是非が、英国内では真剣に議論された。すでに中立の立場をかなぐり捨てて対英軍事支援を強化していたルーズベルト政権内部からも、軍事支援を中止すべきだとする声が高まっていた。

こうした状況の中にあってヒトラーは、対英戦争の休戦を求めて最後の賭けを打った。勝勢にある時期だからこそできる博打であった。

1941年5月10日、アウクスブルクの町(ミュンヘン北西およそ70キロメートル)は晴れ上がり、絶好の飛行日和であった。

この日の夕刻(5時45分)、一機の双発機(メッサーシュミットBf110)が、北に機首を向けてこの町を飛び立った。

操縦するのは、ナチスドイツのナンバーツーであるルドルフ・ヘス(ナチス副総統)だった。ヘスは、ミュンヘン一揆(1923年)の失敗でヒトラーとともに収監されて以来、苦難をともにした同志であった。

北海を北上した同機は北緯55度40分付近に達すると、進路を西に取りスコットランドの町グラスゴーを目指した。ヘスがグラスゴーの南およそ15キロメートルの農村イーグルシャムにパラシュート降下したのは、その日の夜11時を少し回った時のことである。

ヘスがスコットランドを目指したのには理由があった。何とかしてハミルトン公(英国空軍准将、スコットランド防空担当)に会い、彼を通じて英国王ジョージ6世との謁見を実現させたかったのである。

国王を説得し頑迷なチャーチルの対独外交を変更させ、暫定休戦に持ち込みたかった。ヘスは、着地の際に足を挫き身動きが取れなくなっているところを、イーグルシャムに住む農夫に発見された。

知らせを受けたハミルトン公は、メリーヒル仮設病院に運ばれていたヘスに会った(翌朝10時)。公の報告書には次のように書かれている。

「彼は、『(ヒトラー)総統は英国を敗北させようとは考えておらず、戦いを止めたいと願っている。今回の飛行は4度目であり、以前の試みは悪天候で失敗した』と語った」

ハミルトン公は対独宥和派の有力者であり、国王にも近い立場だった。ヘスは公にヒトラーの思いを伝えることはできたが、そこまでであった。

国王に会うことは叶わなかった。グラスゴー郊外の古城(ブキャナンキャッスル)に幽閉され、その後ウェールズの病院(Maindiff Court Hospital)に移送された。

チャーチルは、ヘスを厳重な監視下に置いただけで、けっして会おうとしなかった。英国存亡の危機にあって、ナチスドイツのナンバーツーが自身の生命をも顧みない決死行で、スコットランドにパラシュート降下したのである。

筆者にはなぜチャーチルがヘスに会おうとしなかったのか、理解できない。リアリストの政治家であったなら少なくとも直接ヘスの話を聞き、ドイツの真意を探ろうとしたはずである。

正統派の語る歴史では、ゲーリングが講和交渉に前向きであったこと(デイヴィス密使交渉)も、ヘスの決死行も語られない。ドイツが講和を願っていたことを書いてしまうと、ルーズベルトとチャーチルの戦争指導が誤っていたのではないか、との疑念を湧かせることになる。

あの戦争は、二人の特異な政治家(ルーズベルトとチャーチル)が作った戦争である。

大東亜戦争 ルーズベルト日本に対米開戦させる

米国

ABCDライン

ハルノート

ルーズベルトは1941年に入ると、苛めにも似た対日強硬外交を本格化させたが、それは日本を対米開戦させ、それを口実にアメリカが対独戦に、参戦しようという思惑のためであり、あくまで英米両国の対独外交の一側面であったあの戦争は、二人の特異な政治家(ルーズベルトとチャーチル)が作った戦争である。

この視点(合理的推論)こそが、あの戦争とは何だったのかを解く鍵なのである。

 

 

朝鮮 莫大な税金を投入して、文字を教え、鉄道を敷き、学校を作り、、、いくら感謝されても良いはずだが。

結論

ナチスドイツの世界戦略

西部戦線 ユダヤ人による経済支配の打破 対仏対英戦争

東部戦線 共産主義の絶滅        対ソ戦争

チャーチル  米国の参戦が不可欠→日米開戦←スターリン  対日戦を避けたい→盧溝橋事件←毛沢東  日本と国民党を戦わせたい

英中ソの思惑が一致 ルーズベルトに参戦を促す 日本から攻撃させる→ABCDライン&ハルノート→真珠湾攻撃