平成24年8月 本因坊跡目秀策を訪ねて 囲碁の里  因島へ

ワイフと娘(幸さち)、息子(髙将たかまさ)の家族4人で広島県因島にある本因坊跡目秀策の記念館と墓を訪ねた。

 

3番目の本四連絡橋「しまなみ海道」で因島へ。

因島は平成の大合併で尾道市に編入される以前は

因島市だった。因島市の市技は囲碁である。


 

 

島内を走ると碁盤の看板が見えてきた。

盤を見ると秀策流の布石が、秀策のコスミと言われるの7手目までが記されている。

その下には、因島へ(市技)囲碁の里 本因坊秀策 と書いてある。


    秀策記念館に到着         入ってすぐのところ         資料がいっぱい


 

日本棋院にある幽玄の間が再現されている。

 

幸と髙将 幽玄の間で一局


館内に、秀策が18歳のときに大阪で井上幻庵因碩と対局した名局127手目まで並べて飾ってある。126手目まで白因碩優勢で迎え、秀策が放った127手目があの有名な「耳赤の一手」である。分断されそうな下辺黒4子への応援、左辺白模様の拡大を防ぎ、「13の8」の利きから上辺黒模様を拡大する一石三鳥の手である。これで形勢を押し戻し、遂に黒2目勝ちとなった。秀策が長考を重ね百二十七手目を打ったその時「秀策の勝ち」を予言する男が現れる。その男は医師で、理由を尋ねる門人達に「あの一手で因碩師の耳が赤くなった。動揺し自信を失った証拠」と述べた。予言通り形勢は逆転し、秀策が勝利します。この一手は、秀策の気力と天分が凝縮した究極の一手だといわれている。



記念館の裏庭を過ぎると、秀策の生家を再現した建物がある。

秀作は豪農桑原家に生まれた。名字があるほどの裕福な農家であっても士分ではない。もし若くして他界せず名人になっていたら江戸時代に農家出身の者が将軍に囲碁を教えることになったわけである。初代将軍家康が茶道、華道、将棋などと共に囲碁に家元制を設けたことによって、日本では真剣勝負としての制度が確立しており、士分でなくとも実力で頂点に立つことが出来た。上司への接待に利用され八百長勝負の中国に比べ、日本の囲碁のレベルが格段に高かった理由である。


 

秀策記念館を見学した我々一行は秀策の墓へ向かった。

 

近くで地元の人に「本因坊秀策の御墓はどこですか」

 

と尋ねると、気持ちよく教えてくれた。

秀策の墓を訪ねる人は後を絶たないそうだ。

 

本因坊跡目秀策の墓前で手を合わせた我々は次の目的地 四国松山である「坂の上の雲記念館」へと向かった。